中欧旅行記(5) アウシュビッツ
ポーランドに来てここを外すわけにはいきません。
オシフィエンチムという街、アウシュビッツ強制収容所の跡地です。
唯一の日本人ガイド、中谷剛さんに日本からメールでガイドのお願いをし、待ち合わせ時間に合わせてクラクフからバスで向かいました(夏の時期の日中はガイドなしで入場することはできません)。
集まったのはそれぞれ個人で予約して来た日本人16名。
アウシュビッツミュージアムの入口は人でごった返しています。近年ヨーロッパ中から大勢見学に来るようになり、入場者数は10年前の10倍になったそうです。
今年のサッカーユーロ2012はポーランド開催だったので、全チーム見学に来たそうですよ。
うちの旦那さんは数年前に一度来たことがあり、その時は冬だったせいか人っ子一人いない状況で、雪も降り積もりそれはそれは寂しい雰囲気だったそうです。
各国の言葉が飛び交う雑然とした様子に驚いていました。
煙突が出ているこの建物は食事を作っていた調理場です。調理していたのは収容された人たちで、この道を作ったのも、建物を作ったのも、監守も、みんな収容された人々だったそうです。
そうすることで、収容された人たちの中に競争心やお互いを牽制する心を持たせて、コントロールしていったそうです。
このパネルに書いてあるのは、ここで亡くなった人の人数です。130万人もの人がアウシュビッツに連れてこられたんですね・・・。
アウシュビッツというとユダヤ人だけが犠牲になったと思っていましたが、その他にもポーランド人やロマ(ジプシー)の人々、ソビエトの戦犯、それに身障者までもが犠牲になっていたことを初めて知りました。
アウシュビッツ(第一収容棟所)の後は少し離れたビルケナウ(第二収容所)に移動。
アウシュビッツに収容しきれなくなり、この広大な土地にビルけナウを作ったそうです。
この線路はここで途切れています。ヨーロッパ中から列車で連れてこられ、ここで降ろされほとんどの女性と子供はすぐガス室に送られ、収監された人達は下の写真の馬小屋のような簡素な小屋に何百人も入れられたそうです。冬は極寒のポーランドでその寒さは想像を絶します。
あの「アンネの日記」のアンネ・フランクもオランダからの最後の列車でここに連れてこられました。
そして下の写真がガス室跡です。敗戦がわかるとナチスが証拠隠滅のために破壊したそうです。このガス室で毒ガスをまくのも、遺体を焼却するのも、遺骨を処分するのも、すべて収容者にやらせて、ナチスは自分たちの手を汚さなかったという・・・。言葉を無くしてしまいました。
オシフィエンチムという街、アウシュビッツ強制収容所の跡地です。
唯一の日本人ガイド、中谷剛さんに日本からメールでガイドのお願いをし、待ち合わせ時間に合わせてクラクフからバスで向かいました(夏の時期の日中はガイドなしで入場することはできません)。
集まったのはそれぞれ個人で予約して来た日本人16名。
アウシュビッツミュージアムの入口は人でごった返しています。近年ヨーロッパ中から大勢見学に来るようになり、入場者数は10年前の10倍になったそうです。
今年のサッカーユーロ2012はポーランド開催だったので、全チーム見学に来たそうですよ。
うちの旦那さんは数年前に一度来たことがあり、その時は冬だったせいか人っ子一人いない状況で、雪も降り積もりそれはそれは寂しい雰囲気だったそうです。
各国の言葉が飛び交う雑然とした様子に驚いていました。
有名な「働けば自由になる」のゲートです。当然のことのように働いても自由にはならないので、これを制作させられた収容者がせめてもの抵抗にBの文字を上下さかさまにしたそうです。
中谷さんが言っていましたが、このゲートをくぐって中に収監されたのは働ける体を持ったごくわずかの人で、ほとんどがそのままガス室へ連れて行かれたそうです。
煙突が出ているこの建物は食事を作っていた調理場です。調理していたのは収容された人たちで、この道を作ったのも、建物を作ったのも、監守も、みんな収容された人々だったそうです。
そうすることで、収容された人たちの中に競争心やお互いを牽制する心を持たせて、コントロールしていったそうです。
このパネルに書いてあるのは、ここで亡くなった人の人数です。130万人もの人がアウシュビッツに連れてこられたんですね・・・。
アウシュビッツというとユダヤ人だけが犠牲になったと思っていましたが、その他にもポーランド人やロマ(ジプシー)の人々、ソビエトの戦犯、それに身障者までもが犠牲になっていたことを初めて知りました。
かつての収容棟にはここに連れてこられた人々の遺品が展示されています。
鞄に書かれているのは持ち主の名前と住所。こうすることでいつか帰れると思わせ、パニックに陥らないように仕向けていたそうです。ナチスの周到さは本当に恐ろしいです。
アウシュビッツ(第一収容棟所)の後は少し離れたビルケナウ(第二収容所)に移動。
アウシュビッツに収容しきれなくなり、この広大な土地にビルけナウを作ったそうです。
この線路はここで途切れています。ヨーロッパ中から列車で連れてこられ、ここで降ろされほとんどの女性と子供はすぐガス室に送られ、収監された人達は下の写真の馬小屋のような簡素な小屋に何百人も入れられたそうです。冬は極寒のポーランドでその寒さは想像を絶します。
あの「アンネの日記」のアンネ・フランクもオランダからの最後の列車でここに連れてこられました。
そして下の写真がガス室跡です。敗戦がわかるとナチスが証拠隠滅のために破壊したそうです。このガス室で毒ガスをまくのも、遺体を焼却するのも、遺骨を処分するのも、すべて収容者にやらせて、ナチスは自分たちの手を汚さなかったという・・・。言葉を無くしてしまいました。
知らないことばかりで驚きました。中谷さんのお話は淡々としていますが、心にグサグサ刺さりました。被害者と加害者だけではなく、そこには大勢の傍観者がいたと。
何度も「想像してみてください、考えてみてください」とおっしゃっていました。
ユダヤ人だからお金儲けをしているとか、ロマの人とすれ違う時財布を掏られるのではないかと疑ったり、テロが起きれば犯人は中東の人間に違いないと思ったり、そういう勝手なイメージが少しずつ増幅していき、やがてナチスのように、すべて排除しなければ、となっていってしまう。
極端な話だけれど、似たようなことは誰にでも起こりうるのだと思いますし、今世の中で起こっている争いも初めは些細な問題だったのかもしれません。
問題は何も解決していない、と中谷さんはおっしゃっていました。
また今のギリシャやスペインの状況をとても心配していました。
社会が行き詰った時にヒトラーのような独裁者が出やすいそうです(日本も危ないんじゃないか?!)
スペインの若者の失業率は50%だけれど、暴動も起こらずなんとか持ちこたえているのは、教育のおかげだ、とも。
日本にいると島国なので、国内のことばかり考えがちだけれど、世界とは海や空で繋がっているわけだし、もっと目を向けないといけないと思いました。傍観者にならないために。
3時間ちょっとのツアーでしたが、本当に参加してよかったです。
そしてこの日は偶然にも8月9日。色々なことを考えながらクラクフまで戻りました。
それにしても、この街の夜の美しさは夢をみているかのようです。
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